EMS(ethyl methanesulfonate;エチルメタンスルフォン酸,メタンスルフォン酸エチル)は揮発性の突然変異誘起剤である.密封して冷暗所に保存し,使用に際しては必ずドラフト内で取り扱う(EMSは甘酸っぱい臭いがするという).1N NaOH と混ぜれば数分間で活性を失うとされているが,この処理により完全に無毒・無害になると明記されたテキストを見たことはない.化学的突然変異の誘起処理は生物学的実験において最も注意を要する作業の一つである.変異剤を生物学的効果のある濃度と規模で取り扱うことに注意されたい.(これに対して生物学で用いる放射性同位元素はあくまでもトレーサーでしかない)EMS(例えば Aldrich 22,050-7)はメーカーによっても,また,ロットによっても効き方が異なるといわれている.小規模のパイロット実験を行い,目で見て容易に判別できる変異の出現頻度を調べることで,処理条件(濃度,時間)を決めるのがよいとされる.(面倒なので,当研究室では特別な場合を除いてパイロット実験は行っていない.)
古くなったEMSを用いると毒性を持つためか発芽率が低下する傾向がある.従って,最少量を購入すること.古くなったEMSをため込んでしまうとやっかいである.冷蔵庫に放置したまま忘れられたEMSが,気がついてみたら揮発してしまっていた,という事態にならぬよう.
具体的方法については,下記解説を参照されたい.
突然変異の誘起には古くから薬剤を用いる化学的突然変異誘起法と電離放射線を用いる方法が用いられてきた.前者の方法では主に塩基置換が起こり,後者の方法では染色体の欠失,逆位,転座等が起こりやすい.いずれの場合も,生物材料によりその方法はかなり異なる.また,トランスポゾンやT-DNAの挿入により突然変異株を得るのも突然変異の誘起法に加えることができよう.
シロイヌナズナでは化学的突然変異誘起法としては吸水直後の種子に対するEMS処理が有効である.EMSはアルキル化剤であり,DNAに直接作用して塩基を修飾し,DNA複製の際に元とは異なる塩基が取り込まれることにより突然変異を引き起こすと考えられている.一方,電離放射線を用いる方法としては古くはX線を用いるのが主流であったが,現在ではX線の他,γ線や速中性子線を用いる方法も多用されている.
いずれの方法によるのであっても,突然変異誘起処理によって変異を生ずるのは,2本の相同染色体の内の一方のみである.従って,突然変異誘起処理を施した当代の植物(これをM1世代の植物と呼ぶ;これに対して変異誘起処理前の種子をM0種子と呼ぶ)では,優性変異が起こっていない限り変異株を見つけだすことはできない.そこで通常は,このM1植物を育てて自花受粉させ,次の世代の種子(M2種子)を得ることから実験が始まる.M2世代の植物ではM1種子に生じた個々の突然変異について3:1に分離している.

動物では胚発生の極く初期にgerm lineの細胞が分かれて生殖器官にはいる.これに対して,植物では茎頂部の細胞が,細胞分裂を繰り返して花芽となり,胚を形成し,次世代の種子となる.突然変異の誘起処理では,化学的方法であれ,電離放射線を用いた方法であれ,種子の様々な細胞の染色体にいわばランダムに突然変異が生ずる.M1種子の子葉の細胞に生じた突然変異が次世代以降に受け継がれないであろうことは容易に理解できよう.M1植物は突然変異誘起処理を施した種子(M1種子)から生ずるわけであり,M1植物はランダムに生じた突然変異のキメラ植物となっている.そのようなキメラにおいて,次世代の胚を形成するのにあずかる細胞の持つ突然変異のみが,遺伝学的解析の対象となる.
Redei(1975)は1株のM1植物から得たM2植物を調べることにより,M1種子の細胞の内でM2種子の形成にあずかる細胞の数は2個であることを示した(注).このような細胞を「遺伝的有為細胞(genetically effective cells)」と呼ぶ.即ち,種子の茎頂部の細胞は発芽とともに細胞分裂を繰り返して植物体を形成するが,次世代の胚に遺伝情報が受け継がれるのは,元をただせば2細胞であるということである.言い換えれば,突然変異誘起処理のターゲットは2細胞の持つ4セットの染色体である.
(注) 吸水後,種子の茎頂部は細胞分裂を開始するので,突然変異誘起処理の時期が遅れると遺伝的有為細胞の数(GECN; genetically effective cell number)も増加する.しかしながらEMS処理の場合,EMSは「生きた」細胞には強い毒性を示すので,処理の時期を送らせるのは困難である.
ここで述べるEMSによる突然変異誘起処理では特定の遺伝子がその機能を失う(loss of function)変異株が2,000株のM2植物に1株程度の頻度で見いだせる(注).この,1/2,000という頻度は大変高いように感じられるが,これはシロイヌナズナに特有のことというわけではない.これ以上「強く」突然変異誘起処理を行うと(3,000-5,000あるであろう必須遺伝子が機能を失う変異を持ち込んでしまって)変異株が生存できなくなるぎりぎりの線,ということでEMS処理の条件が経験的に決められたことによる.
(注) 他の植物でも,(必須遺伝子の数は変わらないであろうから)そのような条件が見つけられれば,やはり2,000株のM2植物に1株程度の頻度で特定の遺伝子が機能を失った変異株が得られるであろう.
それではどのくらいの規模(=M0種子の数)でEMS処理を行えばよいであろうか? 1/2,000という頻度から考えて,M2植物の遺伝的多様性が2,000以下では,取れるものも取れないことになりかねないことは,容易に想像できる.この点の議論はRedei(1975)に詳しい.大ざっぱに考えて;EMS処理のターゲットが4セットの染色体で,M2植物の多様性が2,000以上,突然変異が取れる/取れないはポアッソン分布に従うであろうことを考えれば,1回の実験で数千粒のM0種子に対してEMS処理を施すのが適当ではなかろうか.実際問題としても,この程度の規模であれば(常にスペースが問題となる大学の実験室でも)実験室内の栽培場所で対処できる.
栽培場所に余裕があるのなら,もちろんもっと多数の種子を処理するに越したことはない.その場合は,EMSで処理した種子をたくさんのプランターに分けて播種し、プランターごとに別々に採種する。M2植物をスクリーニングして複数株の突然変異株が得られた場合、それが同じロット(同じプランター)の種子に由来する場合は同一の変異株(同一のM1植物に由来する兄弟)である可能性があるが、異なったプランターから得られたM2種子であれば、独立に得られた変異株であることが保証される。
遺伝学的研究の醍醐味は突然変異株の分離にあるが,その成否は変異株の分離方策をどう工夫するかにかかっている.突然変異株の分離法は大きく分けて選択(selection)による方法とスクリーニング(screening)による方法とがある.前者は基本的に目的とする変異株だけを生き残らせる方法であり,後者はM2植物を片端から調べて目的とする変異株を見つけだす方法である.
選択による方法は大量のM2植物を扱うことができ,除草剤耐性変異株の分離などで威力を発揮する.しかしながら,常に適当な選択方法が見つかるとは限らない.大腸菌や酵母の系,あるいは植物でも培養細胞を用いた系では様々な変異株(ライン)の選択法が考案されており,そうした方法を植物体に直接適用してみることもできる.
スクリーニングによる方法は手間が掛かるが,事実上どのような変異株でも分離することができる.目視観察によるスクリーニングで形態に関する突然変異株を分離するのは,この方策による分離の典型例である.ここで述べるEMSによる突然変異誘起処理では特定の遺伝子がその機能を失うような変異株が2,000株のM2植物に1株程度の頻度で見いだせ,数千のM2植物をスクリーニングする気力があれば,酵素活性を測定して欠損変異株を分離するということを行うことができる.長期戦略を立てて,1日に20株ずつ酵素活性を調べ,1年間かけてスクリーニングするというのも一案である.
いずれの場合も,どの生育段階のM2植物で変異株の分離を行うかにより,また無菌的に栽培するか否かにより,M2種子の播種法が異なってくる.寒天培地を用いた無菌的栽培で,種子の発芽までの段階で勝負するならプレート1枚あたり10,000粒の種子を扱うことができる.子葉が展開する時期までならプレート1枚あたり1,000株,最初の1対の本葉が展開する時期までならプレート1枚で100-500株が扱える.花を咲かせようとしたら無菌的に栽培するのは容易とは言えない.従って,分離した変異株(の候補)は寒天培地から引き抜き,鉢上げして次世代(M3)種子を得る.
遺伝子座の名前の付け方は生物種により異なるが,シロイヌナズナにおける命名法は規約が定められている.また,シロイヌナズナの遺伝子座の名前の重複を避けるため,Oklahoma State Univ.のDavid Meinke氏が管理者(curator)となって,名前の登録および遺伝地図のアップデートを行っている.新しい遺伝子座の名前を付けるときは,事前にDavid Meinke氏に連絡を取って名称を登録する.
突然変異誘起処理を行って変異株を得たならば,野生型株,あるいは親株に対して戻し交雑を行う.理想的には7-10回の戻し交雑を行いたいが,実際問題としては3回程度の戻し交雑で我慢する場合が多い.
ごく単純化した考察を行ってみよう.特定の遺伝子が機能を失う突然変異が1/2,000の頻度で得られる.遺伝子1つの大きさは数kbであろうが,その中で,コドンの3文字目が変異してもアミノ酸が変わる確率は低い,3'非翻訳領域に点変異が生じても遺伝子発現に影響を与える可能性は低い,5'領域でも遺伝子発現に影響を与える塩基は限られているだろう,等を勘案すれば,遺伝子1つあたりで機能を失う変異を生ずる塩基は1,000程度であろう.シロイヌナズナのゲノムサイズはハプロイドあたり109塩基対と考えられているから,1,000塩基あたりで1/2,000の確率で塩基置換が起こるのであれば,109塩基対あたりでは500の塩基置換が生じていることになる.
もっと単純に考えて,シロイヌナズナが10,000個の遺伝子を持っているとすれば,遺伝子1つあたりで変異を生ずる確率が1/2,000なら,ある(目的とする)突然変異株が取れたなら,その原因遺伝子の他にも4つの遺伝子が突然変異を起こしていると考えても良かろう.
以下,方法の実際は上記解説を参照されたい.
シロイヌナズナの栽培・2.播種(はしゅ)のページ
シロイヌナズナの栽培・3.採種のページ
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